生まれておいで 生きておいで

東京国立博物館で開催中の「内藤礼 生まれておいで 生きておいで」へ行ってきた。

本展は、当館の収蔵品、その建築空間と美術家・内藤礼との出会いから始まりました。内藤が縄文時代の土製品に見出した、自らの創造と重なる人間のこころ。それは、自然・命への畏れと祈りから生まれたものであり、作家はそこに「生の内と外を貫く慈悲」を感じたといいます。会期中、自然光に照らし出される展示室では、かつて太陽とともにあった生と死を、人と動植物、人と自然のあわいに起こる親密な協和を、そっと浮かび上がらせます。本展を通じて、原始この地上で生きた人々と、現代を生きる私たちに通ずる精神世界、創造の力を感じていただけたら幸いです。

東京国立博物館「内藤礼 生まれておいで 生きておいで」より

浮遊する空気の玉、光の粒、色のささやき。
大地のかけら、太古の足跡。

現代と過去を行きつ戻りつ、重ね合わせるように見つめているうちに、空間に置かれた一つひとつが、いのちそのもののように思えてくるのが不思議だった。情報ではなく、感覚で、こころで感じる世界。

空や草木、花、揺らぐ炎、プリズム。思わずこぼれる、わあきれい、という感情に理屈はない。そうだ、いのちって、そういうものだ。感情や思考を超えた、もっと大きく、広く、深い、いちばん真ん中に、あるもの。太古から変わらぬ、いのちのめぐり、ぬくもり、よろこび。

必然的に、自分が宿したいのちについても考える。おなかの中にいたときには、生きていればこそと願い、生まれておいでと慈しんでいた、いのち。顔も形も、性別すらも見えない「いのち」に対して、あんなに深く愛情を注いだ時間があっただろうか。感情を押しつけ、思考に縛られ、子育てはどんどん、いのちから遠ざかっていく。

そう気づき、展示を見ながら泣いてしまった。ふわふわ浮かぶ風船を見ながら泣いたのは、はじめてだ。

これは感受性センサーがエラーを起こしているのだろうか。ホルモンめ!という類のものかもしれない。このジェットコースターみたいな感情の揺れすらもまた、いのちの躍動とざわめき、だったりするんだろうか。

ここからは余談。鑑賞中、ガラスケースに入った石ころや毛糸の端切れみたいなものに混じって、一本の髪の毛を見つけ、しばし考えた。目録と目の前にある毛を見比べ、自分に問う。これも「いのち」か? まさか、太古の……!? いやいや、紛れ込んだ髪の毛でしょ……ああ、どっち!?!?

(学芸員さんと覗き込みながら「毛でしょうか」「毛ですね」「やはり毛ですか」というやりとりをした)

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