ダイニングテーブルから
わたしの仕事場は、ダイニングテーブル。
ずっと、自分だけの机が欲しいと思っていた。「デキる」ライターさんはみな、仕事部屋をもっていて、そこには執筆用の机と快適な椅子がある。きっとすぐそばには、たっぷりの蔵書を抱えた本棚もあるのだろう。わたしのすぐそばにあるのは食洗機で、午前中はいつもじゃんじゃんと大きな音が響いている。仕事机があれば、もっと効率よく、もっとよい文章が書けるに違いない。そう思っていた。
ヴァージニア・ウルフだって、「女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない」と書いているじゃないか(わたしは小説を書かないけれど)。もちろん彼女がいうのはひとつの比喩だけれど、ともかく、わたしは自分ひとりの机、自分ひとりの部屋に強くあこがれ続けてきたのだった。
あるとき取材で、建築家の東端桐子さんのご自宅にうかがった。東端さんは、すばらしい建築の数々をダイニングテーブルの上から生み出している。決して広いとはいえない空間のあちこちに、彼女の哲学が満ちていたし、むしろダイニングテーブルは可能性に満ちたフィールドのようだった。その証拠に、東端さんが手がける住宅はどれも、住まうひとへの心配りに満ちている。美しさと同じくらい、生活者としての気概を大切にしている、といえばいいだろうか。
それから、東端さんは自分でできる以上の量は請け負わない。自分の手で、ダイニングテーブルでできる大きさの仕事やっている。彼女はそんな自身の暮らしと仕事を「手の届く範囲」と表した。
ではわたしは、と考える。パソコンから顔をあげると、子どもの脱いだパジャマが、キン肉マン図鑑が、けん玉が、飛ばした輪ゴムが、学校に持って行き忘れた連絡帳が、漢字ドリルが、散らばっている。ああ片付けなくちゃと思いながら鍋の火を気にかけ、またパソコンに向かい、そうこうするうちに子どもが帰宅し、同じテーブルでおやつを食べる。学校であったことを聞き、宿題を促し、子どもが「見て見て!」と叫ぶ犬の動画を覗き込む。その向こうには、すっかり乾いた洗濯物が揺れている。
このテーブルだからこそ生まれたものが、たくさんあるのかもしれない。そもそもわたしは、先に挙げた生活のあれやこれやを、仕事と同じくらい大切にしていたい。現時点では、仕事と暮らしを完全に切り分けた状況を、わたし自身が望んでいないのだ。つまりこれが「手の届く範囲」、わたしらしらしいサイズの仕事なのではないか。そう思ったら、なんだか胸のあたりがすーっとした。肩のコチコチも、やわらかくなった。
いま見える景色が、いまのわたし。それでいい。きっと、それがいい。