自分の文章が好きですか
とある場で「自分の原稿をchatGPTに流し込み、添削してもらうといい」という話を聞いた。いいところと悪いところを、AIに教えてもらうのだと。
わたしはタッチパネル注文が苦手で、セルフレジもまごまごしてしまう。ペッパーくんは怖いし、アレクサは知り合いにおらず、GoogleもOKではない。テープ起こしだって自力で行うアナログ人間だ。原稿にchatGPTを使うなど考えたこともない。
しかしきっと、これがいまのやり方なのだ。わたしの文章も、AIの力をうまく借りれば目覚ましい変化を遂げ、驚くほど「うまく」なるかもしれない。いつまでもこねくり回して仕上げどきがわからない原稿も、ビシッと決まるだろうし、そうなれば「コスパ」「タイパ」も上がるに違いない。原稿がすいすい進めば、じゃんじゃんバリバリ稼げる日も近い。ひょっとしたら改善点など見当たらないくらい「すばらしい文章です」なんて言われちゃったりして。
ドキドキとニヤニヤを混ぜこぜにしながら、はじめてchatGPTに自分が書いた文章を送り込んでみた。その結果。
「饒舌でわかりにくい」「一貫性が欠如して、不要な情報がある」「物語やテーマから外れたエピソードがある」
とにかく、ひどいありさまだった。AIはご丁寧に原稿をリライトし、改善提案までしてくれた。それはつるつるピカピカしていて、読みやすく、そして、わたしの好む文章ではなかった。
これは、もしや。ためしに、おそるおそる好きな作家のエッセイを流し込んでみた。ほおら、やっぱり。作家先生の作品は、先ほど以上に、関西弁で言うところの「けちょんけちょんに」指摘を受け、引っかかりのない、つるんとまるい文章に生まれ変わっていた。
そう、そういうことなのだ。こころが動く文章は、だれかの物差しでは、ぜったいに測れない。それはとっくに、気づいていたはずなのに。
このことをライターの先輩に話すと、なるほどとひと通り聞いたあと、「ところで、自分の文章が好きですか」と聞かれた。どきりとした。自分の文章が好きかどうか、そんなこと真正面から考えたことがなかった。というよりも、気づかない、考えないふりをしていた気がする。
でも、じっくり考えてみると、わたしは自分の書いたものを読み返すのが好きだ。そう伝えるとそのひとは、「そうでしょう、わたしも、自分の文章が好きなんです。それでいいじゃないですか」と言い、さらに、「AIには絶対に真似できない文章だということですよね」とも付け加えてくれた。
ずっと、文章がうまくなりたいと思ってきた。もちろん、いまも思っている。でも、うまい文章とはなにか、その答えをわたしは知らない。ただ、「うまくなりたい」と思う気持ちの奥底にあったのは、自分のこころが動く文章を書けるようにという願いだったのかもしれない。自分の文章をまっすぐ見つめて、好きだと思えるものを書きたい、書けるようになりたいという願い。
少し前に編集者がくれた、「藤沢さんの美しいと思うものだけを書いてください」という言葉も、日に日に重みを増していく。「美しい」の輪郭が、あの日よりもくっきりとしている。
美しさの基準は、わたしのなかにある。これからは、わたしのこころに触れることを、わたしのことばで書いていく。