母の道はつづく
実家の母から「お花届いたよ、ありがとう」と連絡がきた。ブルーベリーの小さな木を送っていたのである。外出が少ない今、実がなるものなら少し先の未来が楽しみになるだろうかと思ってのセレクトだった。
「わたしもカーネーションもらったよ」と伝えると、「あかりももらう側になったんやなぁ、お母さんやもんなぁ」と言われる。なんだかこそばゆいような、照れくさいような気持ちと、鼻の奥がツーンとする気持ちがないまぜになった。
わたしは2人の子どもの母親だけど、自分の親の前では子どもだ。母とわたしの関係は、相手がおばあちゃんと呼ばれるようになっても、いつまでたっても母親と子どもなんだという当たり前のことに気がついたのは、つい最近のこと。
母親になってもうすぐ8年になる。
母親になるのは、階段だと思っていた。一段、また一段と上っていき、「ちゃんとした母親」に近づいていく。だとしたら、登り切るのはいつだろうか。登りきったその先には、何が広がっているのだろうか。自分の母親くらいの年齢になれば、その景色が見えるのだろうか。
いや、きっと違う。
母親の道は長く長く続いていて、きっと、いつになっても「はじめて」がやってくる。子どもがひとり暮らしを始めたり、結婚したり、どこか遠い国に行ってしまったり、孫が生まれたり。そんな「はじめて」を繰り返しながら、母親の道はまだまだつづいていく。そもそも「ちゃんとした母親」なんて、どこにも存在しないのかもしれない。
なんてことを考えた今年の母の日でした。
本当は母の日なんてなくても、きちんといつでも感謝の思いをもっているべきなんだろうけれど。わたしのような人間は、きっかけがないと、日常に流されて大切なことを忘れてしまう。だからときどきアナウンスをしてくれる行事というのは、義務でもなんでもなく、ありがたい存在なのかもしれません。